<はじめに>

林総合法律事務所の概要を説明するには、代表弁護士林がどのような経緯や考えでどのような弁護士業務をこれまで行ってきたかを説明することが近道と思います。少し長くなりますが、年代を追って説明いたします。

<1995年~1999年>

1995年(平成7年)、林は、企業再生や知的財産の分野に強みをもつ法律事務所で弁護士としての活動を開始しました。当時は、企業再生・倒産、知的財産・特許はどれもマイナーな法分野であり、弁護士仲間からも「変わったことをやるね」とよく言われました。しかし、私にとっては、優れた先輩、多様な案件、そして時代に恵まれ、これらの分野を自分の出発点にできたことは幸せでした。

私がおそらく最も感謝すべきなのは、企業再生・倒産と知的財産・特許という「組合せ」です。この二つの分野は両極端に異なります。

企業再生・倒産は、事業の破綻という極限的な危機状態の中で、動きながら状況判断や法的判断をしていく必要があり、スポーツでいえばサッカーのような分野です。しかも、倒産は人間の本性がむき出しになり、また、人にストレートに向き合うことが必要な分野でもあります。

他方、知的財産、特に特許は、技術やその発展を理解し、特許明細書という技術者によって書かれた説明を緻密かつ論理的に検討していくことが必要であり、詰め将棋のような思考や判断が必要な分野です。しかも、特許紛争では、高度な訴訟技術も必要とされます。

このように、倒産と特許という二つの分野は、弁護士の専門分野として両極端に異なる分野といえます。実際、専門性を前面に出した「ブティック・ファーム」といわれる法律事務所も増えていますが、倒産と特許などという組合せは無いと思います。米英の弁護士からは「ありえない」といつも言われます。

確かに、サッカーをしながら詰め将棋をしている状況ですので、勉強を含めて、忙しさや負荷は尋常ではありません。しかし、この両端の分野を弁護士新米時代に手がけたおかげで、「人との関わり」、「法律家としての緻密さ」、「正しいことへの拘り」といった弁護士にとって必要な大切な土台を作ることができたと思っています。どのような分野や案件も、スキルや感覚としては、倒産と特許の間のどこかに位置づけることができるという意味で、自分の自信にもなりました。

そして、まわりでは時代が動き始めていきます。90年代初頭のバブル経済崩壊による歪みの蓄積が90年代後半になって限界点を迎え始めます。林が弁護士になった2年後、1997年11月に三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が経営破綻し、その翌年には、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が経営破綻します。そして、金融機関に対する不良債権処理の圧力を背景に、倒産、投資、外資進出のブームが一気に広がっていきました。林も、山一證券や長銀の事件を中心に多くの案件に携わりました。

また、拓銀、山一が破綻した同じ1997年の5月に発覚した大手銀行の総会屋への利益供与事件では、事件発覚翌日から社内調査の業務に携わりました。想像を遙かに超える事件の根深さや深刻さ、各社内関係者の置かれた立場、捜査当局の動きなどに直面しながら、この種の調査業務の難しさを痛感しました。最近は第三者委員会による調査がよく行われますが、20年経っても弁護士による調査の難しさには変わりがありません。ただ、1997年の記憶に残っているのは困難さよりも空気です。当時はまだコンプライアンスという言葉は一般的ではありませんでしたが、銀行内の「変わらなくてはいけない」という空気はコンプライアンスの本質だったと思います。

この時代は事件の質も変えました。良し悪しは別にして90年代半ばまで我々日本弁護士は日本の法律や実務を勉強していれば足りました。しかし、90年代後半の怒濤のような外資進出ブームの中で、米国流のM&Aやファイナンスの手法に適応することが必要になりました。今でこそ当たり前ですが、デューディリジェンス、表明保証といったM&Aの基本概念、英米流の交渉、取引手法、契約書などへの対応能力を鍛えられた時期でした。また、「グローバルスタンダード」というキーワードの下、コンプライアンスの強い潮流が作られていったのもこの時代です。

<2000年~2002年>

2000年から2002年(平成12~14年)、海外での研修のため林は日本を離れました。海外研修の動機は外資進出に対する危機感です。極めて単純に「負けたくない」という思いです。研修先は英国を選びました。日本の外資進出ブームや「グローバル化」の主体はもちろん米系企業でした。だからこそ、「米系企業とどう対峙するか」を学ぶことができる場所はどこだろうと考え、米国の母国でありながら、日本と同様に米国に振り回されているであろう英国にしようという考えでした。勝手な想像でしたが、渡英後、米系当事者も交えた会議の後に英国人の仲間にどう思った?と訊くと、辟易した様子で、力ずくで押しつけられている、ハリウッド映画みたいだ、英語も1、2割は分からないなどとぼやいていたので、想像は間違っていなかったようです。

ただ、その後のアジア・ブームを考えると、あの時自分もアジアに行っていればと考えるときがあります。しかし、90年代の後半、日本の金融危機とは別に、東南アジア諸国を中心に通貨危機と呼ばれる経済危機が起きており、その中でアジアに行く勇気は自分にはありませんでした。同じ頃、中国などのアジア諸国に研修に出た友人たちの先見の明をただ尊敬するばかりです。

英国では、企業再生、知的財産、M&Aなどの分野を主体に大学や法律事務所で研修をしました。広い視野で物事を見ることが学べたという点で英国での経験は極めて貴重なものでした。また、この当時、エンロン事件、ワールドコム事件など、国際的、世界的な倒産事件に英国側から関わることができ、英米の大西洋を挟んだ関係(trans-Atlantic)を日米の太平洋を挟んだ関係(trans-Pacific)に応用できるのではないかという視点で検討できたことは幸運でした。

日本の所属法律事務所の勧めもあり、2002年は米国において研修を行いました。米国に移ったのは、正直に言えば、2001.9.11後の米国が見たかったという理由です。ニューヨークの当時の独特の雰囲気の中で「9.11と広島・長崎の違いが僕には分からない」と言って米国の友人達を困惑させていたことを思い出します。

米国では特にチャプター11事件(米国倒産法第11章の規定に基づく企業再建手続)の実務を研修対象としました。主にニューヨーク州、デラウェア州でのチャプター11事件の、申立て前の段階、手続中の資金調達を含む諸々の手続、最終出口としての資本再構成やスポンサー企業への譲渡など、様々な事件の各段階に、債務者、債権者、投資家などの立場から関わることができ、米国倒産の制度としての明確さやダイナミズムに圧倒されました。

また、2002年の秋には、日本でお世話になった倒産法研究者の先生のご紹介を受け、テキサス大学において、国際倒産の権威であるウェストブルック教授の下で短期研修するという機会にも恵まれました。国際倒産では、国際的な調和や統一を重視する立場(理念的な立場です)と、それを諦めて国ごとの属地的な思考をする立場(現実的な立場といえます)に分かれるのですが、ウェストブルック先生は前者の代表的論客です。ウェストブルック先生には、妥協的な結論に飛びつく前に、目指すべき目標や理念を実現するために真剣に努力することの大切さ、その努力がよりよい結論をもたらすという信念を教えてもらいました。このことは、日々弁護士としての仕事をしながら、いつも心の中にあります。

<2003年~2006年>

2003年(平成15年)、林は、東京の所属法律事務所において執務を再開しました。90年代後半と比べれば、かなり落ち着いていましたが、わが国金融機関の不良債権処理はまだ続いており、また、外資はすっかり経済システムの一部になっていました。その中で、事業再生、M&A、紛争の案件を中心に弁護士業務を行いました。

2006年には少なくとも大手銀行の不良債権の処理はほぼ終わり、自分自身も未来を考えるゆとりができました。その際に特に気になっていたのはファイナンス(金融)です。

2000年代前半は、不動産をはじめとする資産の流動化・証券化による資金調達手法が広がっていました。なお、J-REITの上場開始は2001年のことです。こうした背景から、様々な案件にファイナンス技術が関わってくることが多くなりました。たとえば、事業再生の事件で、スポンサーへの事業譲渡を行う際に複雑なファイナンス技術を用いて資金調達するなどということも珍しくなくなっていました。

ところが、ファイナンスという法分野は、専門性、技術性が著しく高く、また金融実務との関連が強いため、片手間に修得できるものではありませんし、本での勉強では到底使い物になりません。実戦的な知識やノウハウは、大手の法律事務所やファイナンスを専門とする法律事務所に集中していました。

ファイナンス技術の普及や拡がりに伴い、ファイナンスの道具を持たないことは限界と感じられるようになってきました。そこで、より大きな羽を求めて、2007年1月、約2百名の弁護士を擁する大手法律事務所にパートナーとして移籍しました。

<2007年~2013年>

移籍した大手法律事務所は、M&Aなどを扱うコーポレートチーム、ファイナンスチーム、紛争チーム、知的財産チーム、事業再生・倒産チームなど、フルラインの人材を有し、また海外法律事務所との提携関係もあり、どのような案件にも対応できる人員と設備を持っていました。このため以前よりも容易に様々な案件に対応できるようになり、日本企業による海外企業への投資、破綻金融機関の承継会社への譲渡といった案件にも取り組むことができました。このようにして、企業法務、M&A、紛争・訴訟を中心に幅広い案件に携わりました。

2008年9月、リーマン・ショックを発端に金融危機が世界を襲いました。2007年頃まで「不動産ミニバブル」ともいわれ、資産の流動化・証券化による資金調達が過熱していました。世界的金融危機によって倒産事件が多発し、特に、多くの流動化・証券化スキームが壊滅的な打撃を受けました。ファイナンスと倒産に関する多くの困難な問題が生じましたが、ファイナンスチームと連携して多くの案件に対応しました。この際の経験を元にその後「証券化と倒産」という論考を発表しました。

2011年から2013年にかけては法律事務所自身の海外展開のプロジェクトに関わりました。ベトナム・ホーチミン・オフィスを手始めに、シンガポール、ベトナム・ハノイ、ミャンマーに現地拠点を設置してビジネスを展開し、またインドなどの法律事務所との関係を作っていくプロジェクトでした。大手法律事務所の東南アジアなどへのいち早い進出であり、また、現地の様々な規制、設備や人員の確保といった経験も貴重なものでした。そして、この経験を通じてアジア展開に関する様々な知見やネットワークが得られたことは弁護士として有益でした。

このように、大手法律事務所での7年間はとてもエキサイティングで、やり甲斐に満ちたものでした。しかしそれと同時に、身勝手ですが、大きな組織の窮屈さを感じるようになったり、六本木の高層タワーのオフィスから眺める東京の景色がだんだんリアルに感じられなくなっているという意識もありました。そうしたこともあって移籍を決めました。

<2014年~2016年>

移籍にあたっては、人に近いところで仕事をしたいと考えました。このため、企業法務のバックグラウンドを持ちながら個人の事件を数多く扱っている友人の事務所に参画しました。自分を含めパートナー弁護士が2名、アソシエイト弁護士が4名ほどの小規模な事務所です。この事務所のオフィスは都心では珍しく1階にあり、文字どおり、地に足を着けて仕事をしようという意識でした。

この3年間、法人や企業の法務、危機管理・危機対応、銀行・金融、企業再建・倒産、事業再編、事業承継、支配権紛争、その他様々なタイプの訴訟・紛争、知的財産権、個人情報、IT、国際紛争などの分野の業務を行う一方で、相続・遺言、親族間紛争といった個人の案件も積極的に取り組みました。

<2017年~ 林総合法律事務所として>

代表弁護士林の経験や経歴は、このように多岐にわたっています。敢えて要約すれば、企業再生・倒産 と 知的財産・特許という2つの分野を出発点にして、その両端の間に、訴訟・紛争、M&A、コーポレート、金融・銀行実務、ファイナンス、国際といった各分野で重ねた経験が、林の土台です。そして、この幅と厚みをもった土台を基礎に、創意工夫や応用力をもって、一つ一つの案件に最善の解決をもたらしたいというのが、林の目指すところです。

このような思いから、2017年(平成29年)4月、新たに林総合法律事務所を立ち上げました。今後一歩ずつ成長させていく予定ではあるものの、まだその陣容は小さく、まさにこれからの法律事務所ですが、皆さまのご支援、ご愛顧を賜りたく、何とぞよろしくお願い申し上げます。